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ベルリンの「赤い島」探訪 【2008年5月2日】

 ベルリンには「赤い島」がある。「島」と言っても内陸に位置するベルリンには海に浮かぶ島はない。「博物館島」で有名な川の中州や「孔雀島」のような湖の島も「島」には違いないが、ここで紹介する「赤い島」はそのような水上の島ではない。
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ユリウス・レーバー橋駅ホーム
 ソニーセンターで有名なポツダム広場から少し南に下った辺りに、Sバーンが二股に分かれるところがあり、底辺をやはりSバーン環状線が走る三角形の地帯。ここが鉄道線路に囲まれた「島」なのだ。Sバーンが交差する地点には駅があり、それぞれは、シェーネベルク(Schöneberg)、ズートクロイツ(Südkreuz)、ヨルクシュトラーセ(ヨークシュトラーセの方が発音に忠実か?)(Yorckstraße)である。5月2日、この鉄道線路の三角地帯にもう一つの新駅が開業した。名前はユリウス・レーバー・ブリュッケ(Julius-Leber-Brücke)駅。訳せばユリウス・レーバー橋駅の意味。
 ベルリンのSバーンで166番目の駅だそうだが、これを記念してこの「赤い島」を訪問してきた。この一帯は、地区としてはシェーネベルク地区に属するが、すぐ東には、トルコ人の多い地区として有名なクロイツベルク地区が位置する。シェーネベルク地区は、以前紹介したこともあるが、カフェやレストランが比較的多く、ナイトライフも楽しめる繁華な地区。今でこそ東ベルリンのミッテ地区やプレンツラウアーベルク地区にお株を奪われた感があるが、若者に人気の界隈。特に壁の開く前は西ベルリンの夜遊び地帯として栄えていたようだ。

 住宅の密集度もそれなりに高い。一戸建てはほとんどなくベルリンで一般的な5階建ての集合住宅が密集している。ミートカゼルネ(賃貸兵舎)と呼ばれた19/20世紀転換期の大規模住宅に比べればまだこちらの方が住環境は良さそうだが、ベルリンの工業化以降は労働者の居住区になったようだ。そして「赤い島」の「赤」もそこから来ている。つまり社会民主党、独立社会民主党、共産党を支持する労働者の街という意味がある。
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ディートリヒ生家
 と言う訳だから定期観光バスが向かうような名所・旧跡はほとんどないが、見所がないわけではない。ユリウス・レーバー橋駅を降りてまず向かったのは、レーバー通り65番地(Leberstraße 65)。ここには何があるかというと何もないのだが、マレーネ・ディートリヒの生家だった場所。今は、それを記念するプレートがあるばかりだだが、ガスタンク(ガソメター)の跡地も見えるこの辺りには、当時を偲ばせる雰囲気が残る。昔は、万屋か八百屋でもあったであろうという交差点の角の店舗は、今はチェーンのスーパーやアイスクリーム屋になっていたりするが、規模や建物の具合からは、すぐに現代のメッキが剥げて、戦前にタイムスリップしてしまう感じすら漂う。
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赤い島の街並
 このレーバー通りは、ディートリヒ誕生の地というだけではなく、この島に「赤い」という形容詞が付くきっかけとなった事件が起きた場所でもある。1878年に時のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が、静養先からベルリンに戻る際、当時はセダン通り(Sedanstraße)(セダンはプロイセン・フランス戦争の勝敗が決定した戦場)と言ったこの通りに窓に赤い旗を立てたシェーネベルクの住人がいた。それが、ビール取次業を営んでいたベッカー(Bäcker)だった。1878年と言えば「社会主義者鎮圧法」の施行した年であるから、赤旗は当然、社会主義という政治的メッセージということになる。これをきっかけにセダン街は「赤い島」と呼ばれるようになった。
 このレーバー通りだが、当初「セダン通り」という名前だったことは既に書いたが、それは1871年から1937年までのこと。1937年には「フランツ・コップ通り(Franz-Kopp-Straße)」と改称された。フランツ・コップ(1909 - 1933)は、ナチスの支持者だったが、通りの名前はもう一度、1947年に現在の「レーバー通り」と改名された。「レーバー」とは、ナチス体制に抵抗したユリウス・レーバー(Julius Leber)(1891 - 1945)のこと。彼は1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加担した疑いで1945年1月に処刑されている。彼は元々、社会民主党の支持者で一時投獄されるが、釈放後、この赤い島で石炭商で働きながらナチスへの抵抗を画策していた。ナチスの親派から、彼の名前に因んだ1947年の通りの名の変更は「脱ナチ化」ということだろう。

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ガソメター
 赤い島の起源が分かったところで、産業遺跡にも指定されているガソメターを見ながらトルガウ通り(Torgaustraße)に沿ってシェーネベルク駅へ戻る。この通りとゴーテン通り(Gotenstraße)の交差点の角にはレーバーが働いていたという石炭商が合ったはずなのだが今はどこがそれなのか明らかではない。
 シェーネベルク駅から再びSバーンに乗ってヨルクシュトラーセ駅まで行く。この駅を降りると、Zwölf-Apostel-Friedhof(ツヴェルフ・アポステル・フリートホフ:十二使徒墓地)がある。ここは、庭園史跡にも指定されているところで、天気の良い日には園内を散策するのも楽しい。
 その墓地を出て東に少し歩き、傾斜のある通りを上ると、そこはホッホキルヒ通り(Hochkirchstraße)。特別な通りではないが、坂の途中でクランク状に折れ曲がっていて、ちょうどその角にAromaというカフェ・イタリアレストランがある。散歩の途中で喉を潤すのに都合が良い。実は、この通りに面したアパートに以前住んでいたことがある。当時は、歴史の研究で留学中の身だったのだが、自分の研究テーマにばかり関心があり、住んでいたこの界隈のことには全く無知だった。自分が「赤い島」の住人だったのに恥ずかしい限りだ。

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トルコ市場
 と、年寄りっぽく昔を回顧したところで、再び坂を降りてもと来たSバーンのガードをくぐり西側へ出ると、ちょうど土曜日で市場が立っている。ここは、トルコ市場として有名で、普通の店ではなかなか手に入らない魚介類、新鮮な野菜、衣料品などが所狭しとならび、かなりの賑わいを見せている。この日は、トマト1.29 EUR/kgというのを見た。よく行く近所の八百屋もトルコ人の経営で安いと思っていたが、それでも最近は1.49 EUR以下を目にしていないので、かなりのお買い得。
 最後に地下鉄のヨルクシュトラーセ駅(Sバーンには二つのヨルクシュトラーセ駅があり、その二つをこの地下鉄駅が繋いでいる)まで歩く。以前、出口の前にはドネルケバブの屋台があり、よく食べていたが、今はレストランを併設するまでになっていて驚いた。テイクアウトのカウンターには行列ができていた。
 現在「赤い島」は、トルコ系の住人も多く、かつてと同様に庶民的な雰囲気を持ったいた。(長嶋)

「赤い島」への行き方:
本文中に書いたSバーンが便利。Julius-Leber-Brücke駅を含めポツダム広場駅から南へ5分ほど。地下鉄ならU7のYorckstraße駅。バスなら204系統がZoo駅から出ており、ディートリヒの生家近くにはLeuthener Straßeという停留所がある。


後記:
 上に「赤い島」の名前の起源について、1878年にベッカーが赤旗を掲げた、という逸話を紹介したが、これには都市伝説的な特徴があるそうだ(Wikipedia: "Rote Insel" (http://de.wikipedia.org/wiki/Rote_Insel)(2008年5月4日確認))。確かに「セダン通り」に「赤い旗」というのはでき過ぎた話ではある。機会があれば、実話だったのかどうか検証してみたい。
 当初、皇帝が、ベルリンの帰途、セダン通り通ったかのように書いていたが、利用した資料にはそうは書かれていなかったので文を少し改めた(5月4日)。

参考資料:
Claudia Braun, "Berliner Originale mit Insellage" in: Punkt3 Nr.08/2008.
Lexikon Berliner Straßennamen, Berlin 2004.
Chronik Berlin.

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