<アレクサンダー広場>

 アレクサンダー広場でUバーン(地下鉄)を降りて階段を上がると、建物が密集して立っているベルリン西部とは違う風景が広がっている。ヨーロッパの都市の歴史について書いた本を読んだら、ヨーロッパの都市の中では基本的に建物はブロックごとに連続して立っているのだそうである。そういわれてみればヨーロッパの古い町で戦災に遭っていない地区はブロックごとに一塊をなしていて、日本の街では、どんなに人口密度の高い場所でも見られる、ごみの容器がおいてあったり、自転車をちょっと停めておくことができるあの隙間がほとんど存在していないことに気づく。アレクサンダー広場とその付近では、私たちがヨーロッパの古い町からイメージするのとはまったく違う風景が展開している。都市自体の規模に不釣合いな巨大な広場、幅の広い道路、建物と建物の間の空間。こういう場所のそばに古いベルリンが隠れているというのは想像がつきにくいが、開発から取り残されたり、保存対象になっている建物や地区が多くあって、ヨーロッパのほかの町にはない、独特のコントラストを生み出している。



 広場の東側のステージ状になった部分の階段には、観光客が集まって、地図をみたり、休憩したりハンバーガーやソーセージを食べている。10年前のアレクサンダー広場はなんとなく暗くて怖い場所だった記憶があるのだが、ここ数年でずいぶん明るくなったと思う。もっともドイツに来た当初は、日本でネオナチによる外国人への暴行事件がずいぶんと取り上げられた時期だったのでアレクサンダー広場に限らず夜に外を歩くときは叫び声や若者の集団を見ると目立たないように回避したりしていた。今になって振り返って見れば、ベルリンの中心部でびくびくしながら歩いている姿はわれながら滑稽だが当時は平均的ベルリン市民の服装はかなりひどいものだったので怖く見えたのだろう。叫び声のほうはオリンピック・スタジアムでサッカーの試合があった晩にはU2(地下鉄2号線)の主要な駅では必ず聞くことができる。最初はなにか集団暴動でも起きたのかとぎょっとしたものだが、酔っ払ったサッカーファンが集団で歌っているだけのことだった。一般的に見てベルリンはかなり安全な大都市だと思う。夜遅くなると、行儀が悪い人が増えるのはどこも同じだが、人気のある場所で危ない目に遭うことはまずないといって良いだろう。夜中に電車に乗るときに「物騒な雰囲気」を感じたら頑丈そうなおばさんのそばに座ると良い。こういう人たちは怖いもの知らずなので結構頼りになる。

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左:アレクサンダー広場の「世界時計」。スプートニクとバウハウスのデザインを混ぜるとこういう感じになるような気がする。
右:不釣合いに大きな広場を見ると、昔は東側だったことが実感される。西ベルリンから東の都心部にくると妙に空が広くなったような気がする。路面電車も東ベルリン(ただし延長された路線が一部西のヴェディングに通じている)のもの。
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 広場の中心部に立って周りを眺めて見る。アレクサンダー広場に戦災を逃れて建っている建築はアレクサンダーハウス(Alexanderhaus)とベロリーナハウス(Berolinahaus)の2つしかない。どちらも1929年にアレクサンダー広場改造計画の一環で行われたコンペの結果、1930年から32年にかけて建設された建物で当時としては近代的な建物だった。設計はペーター・ベーレンス(PeterBehrens)、帝国議会に取り付けられている「ドイツ国民に」(Dem DeutschenVolke)の意匠やAEGタービン工場のデザインで知られる建築家である。この2つの建物は1929年のコンペによるアレクサンダー広場改造計画によって馬蹄形に広場を囲む建築群の一角となる予定だった。現在、東独風のビルが建っている広場の東側正面には垂直の線を強調した30年代風の高層ビルが建設されることになっていたが実現していない。
 
 ベロリーナハウスには1998年まではミッテ区の区役所があり、住民登録のために、改修工事前のベロリーナハウスにはいったことがある。

 内部の設備は1950年代の初めにこの建物が修復されたときのものでかなり古ぼけていたが、簡素で割合に清潔だった。ただ、上の階に行こうと思って、エレベータのある場所へ行くと、そこで動いていたのはパタノスタ(Paternoster=数珠という意味もある)と呼ばれる古い昇降装置だった。たぶん、ほとんどの人は見たことがないだろうと思われるので説明しておくと、この装置は「数珠」という名の通り、ドアの無い箱がいくつもワイヤーロープに取り付けられていてゆっくりと動いているというものだ。エレベータと観覧車の中間というのが一番わかり易いかもしれない。実際に扉(があるはずの場所)の前に立つと、床下から箱がゴトゴトと音を立てながら上がってくる。初めてあれに乗るのは結構勇気がいるもので、箱が完全に上がりきる前だと下に落ちていきそうな気がするし、箱の底が自分が立っている床よりも上に来てからでは天井と箱の間に挟まれてしまいそうな気がした。

 一度やり過ごしてようやく箱に乗った。2階、3階、、目的の5階を示す、5という数字が目の前を過ぎて降りていく。なんだか建物が動いているようだなと考えているうちに6階まで行ってしまったので階段で1階分降りる。住民登録を終わり、今度は降りるためのパタノスタの前に立つと箱が下りてくる。いざ乗ろうと思うと降りる箱に乗るのは上がりよりも難しく感じられた。うえに上がろうとして前に進むと床が降りていくのだから気持ちが良いものではない。今度はつま先を箱と床の間にもぎ取られそうな気がしたので、こんな恐ろしい乗り物に乗るのはやめて階段を使うことにした。外に出たら、パタノスタに乗った以外のことは覚えていなかった。

<地下鉄アレクサンダー広場駅>

 さて、最初の部分でこの広場の広漠とした風景を、東欧の都市の風景と結びつけて表現したが、アレクサンダー広場の広さには別の理由がある。1920年代までのアレクサンダー広場は現在の何分の一かの大きさしかない空間だったが、現在の地下鉄5号線を開削工法で建設する際に、もとの広場に面していた2から3階建ての住宅群を取り壊さざるを得なかった。付け加えると、ベルリンの地下鉄建設でシールド工法が使われたのは地下鉄7号線ヨルク・シュトラーセ=クライスト・パーク間(1969年完工)が初めてで、ロンドンの地下鉄のように最初からシールド工法を使っていたらアレクサンダー広場の姿もかなり違っていたことだろう。戦前に建設された路線は開削工法で大きな道路の道なりに建設されているため都心部では急なカーブが多い。

 アレクサンダー広場から議事堂を経て中央駅に続く、建設中の地下鉄55号線はシールド工法で建設されている。2006年には中央駅とブランデンブルク門の間の区間で運転が開始されることになっている。アレクサンダー広場までの完全開通は2020年頃とされているが建設にそれほど時間がかかるわけではなく、こうすることで財政危機の状態にあるベルリン市は連邦から既に受け取った補助金を返済しなくて済むのだそうだ(営業開始とともに返済が始まるということだろう)。

 この55号線の建設計画は実はすでに5号線が建設された当時にさかのぼり、1930年に5号線と8号線が完成した後、続けて西に向かう路線が建設される予定になっていた。30年代前半の大不況によって建設工事がストップされたが、5号線のアレクサンダー広場駅は既に完成していたので、乗換駅として建設された5号線のアレクサンダー広場駅のホームは2つあるのに乗り入れている路線は1つしかない。ベルリンには計画途中で放棄されたり、路線が変更されたことで(東京高速鉄道新橋駅のように)幽霊駅になってしまった駅やトンネルがいくつかある。
 
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左:アレクサンダーハウス:鉄骨コンクリート造の8階建てで外壁は石灰岩。最初の計画ではU字型に広場を囲む予定だったので建物が屈曲している。
右:ガレリア・カウフホーフ(旧:ツェントルム・ヴァーレンハウス)。
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<カウフホーフと地下シェルター>

 広場の北を眺めると、ガレリア・カウフホーフというデパートとホテル・パークインがある。この二つの建物は戦争で破壊されたヘルティー百貨店(Hertie、1905年)の跡地に1970年に同時に建てられたもので、このふたつは連絡通路でつながっている。
 ガレリア・カウフホーフのアルミニウム製のファサードはこのデパートの名物だったが、昨年10月のカウフホーフ・ヴァーレンハウス社の発表では、建物を改築し、外装は砂岩で覆われることになるそうだ。現在の建物は約30年前に建てられたもので、東ドイツ時代には最大のデパート(販売面積1万2000?)だったということだが、今回の改装・増築で販売面積は2万4000?から3万6000?と1.5倍に、管理部門が入っている最上階も天井の高さを1m増して、店舗・レストランにし、最上部にはガラスのピラミッドが載ることになっている。改装工事は2006年のワールドカップまでの完成を目指し、アレクサンダー広場に面した壁面にはスクリーンが取り付けられ、試合の中継を行うらしい。外壁の改装には多くの批判があり、発表された改装計画で予定されている外装は関係者の間であまり評判がよくない。区議会ではアレクサンダー広場の名物の一つとして長らく親しまれてきた「蜂の巣」(Waben)を保存しようという運動があったが、素材の劣化も激しいためこの提案は却下されている。

 ドイツのデパートチェーンはこの数年で統合が進み、全国展開しているデパートはカールシュタットとカウフホーフしかなくなってしまった。ベルリンでは、カールシュタットは13ある店舗(スポーツ専門のカールシュタット・シュポートを除く)すべてが西ベルリンに、カウフホーフは5店舗のうち4店舗が東ベルリンに展開し、市内を二分している。店舗数の多いカールシュタットでは店舗の差別化によって広い顧客層の獲得を狙っているようだが、売られている商品が画一化してデパートに行くのも必要なものを買いに行くだけになってしまったような気がする。

 アレクサンダー広場は3路線のUバーン(地下鉄、2、5、8の各線)が交差しているが、地下にあるのは地下鉄だけではない。30年代の不況で地下鉄工事と高層ビルの建設がストップしてしまったことについて書いたが、工事が中断されたとき、この高層ビルの巨大な基礎部分とそこを貫通している2本の地下鉄トンネルは既に出来上がっていた。ただしこの部分にはまだ天井がなかったので広場に巨大な穴ができてしまうことになり、結局、巨大な広告板で覆うという苦しい解決策をとっている。1936年のベルリン・オリンピックに際してはさすがに見苦しいと考えられたのか、ついにこの穴を埋め立てて緑地とした。オリンピック終了後、ナチス政権はこの敷地にベルリン中央労働局を建設することに決定したが、戦争が始まったため再び建設を中止、その代わりに基礎部分を利用して2層の巨大なシェルター(ドイツ語では「ブンカー」という)を建設することになった。1941年から43年にかけてこのブンカーを建設したのは長い間ドイツ第2のゼネコンとして知られ、2002年3月に倒産したフランクフルトのフィリップ・ホルツマン社(Philipp HolzmannAG)である。当時の所有者はドイツ帝国鉄道(DeutscheReichsbahn)で、帝国鉄道はドイツ全土の主要駅の地下に大規模なブンカーを建設する計画を作成し、その一部が実施された。収容人員は約3500名、天井の厚さ3m、壁の厚さ1.8m、地上には3つの塔が設けられブンカーへの入り口とされていた。大量の人間が一斉に駆け込めるよう、この入り口は階段ではなく、スロープ形式をとっている。ベルリンの市街戦の際、ラントヴェーア運河に面したSバーンのトンネルが爆破され、ベルリン市内の地下鉄網とともにこのブンカーも水没した。戦後、排水を行うと数人の戦死者の遺体が現れた。

 60年代から70年代にかけて東ドイツ政府はこのブンカーに1層を追加して市民の待避所とすることにしたが、結局利用できる状態とはならなかった。実に70年以上にわたって作り続けられた挙句、何の用も果たさなかったという珍しい建築だが、2003年10月から11月にかけて、(ついに)このブンカーの中で展覧会が行われている。

 日本に比べると地下の商業利用はほとんど行われていないドイツだが、ベルリン市の中心部では建設費用にして40パーセントの人口建造物が地下に存在しているということだ。

<テレビ塔と市庁舎>
 
 アレクサンダー広場を離れて、西に向かうことにする。テレビ塔の立っている駅西側の巨大な広場は戦災で焼ける前は集合住宅が密集して立つ普通の街区だった。初めてこの広場を通過してからしばらくの間、この広場は昔から個々にあったものと勘違いしていたのでなんとも思わなかったのだが、あるとき蚤の市で、飛行船が駅の上を飛んでいる古い絵葉書を見つけたのでよく見るとテレビ塔が立っているあたりは広場ではなかった。アレクサンダー広場というのはてっきりこの駅の西側の広場を指して言うのかと思っていたが、確かに地図でアレクサンダー広場と示されているのは駅の東側の広場だ。テレビ塔の番地を調べて見るとここは広場ではなくてパノラマ通り(Paynoramastraße)という。パノラマ通りという名前は1883年に、セダンの戦い(1870年、普仏戦争)での勝利を記念して作られた円形の建築物だ。周辺の建物同様、戦争で破壊されたしまったため残っていない。手元に写真が無いのでどのような建物かはわからないが、「有名な建築家エンデ(Ende)とベックマン(Böckmann)の設計になる」という記述を日本でも読んだことがあるような気がしたので調べて見ると、この二人は明治19年に日本政府が官庁街建設計画のために招聘した建築家だった(法務省旧本館などが知られている)。

 この広大な空間には何があったのだろうと思い、1786年の地図を見ると現在市役所前の広場になっているあたりには、シュパンダウ通り(SpandauerStraße)に面してラントシャフツハウス(Landschaftshaus)と呼ばれる建物があったことがわかる。これは、1823年にプロイセン改革の結果として設置された身分制の地方議会があった建物で、ここには17世紀からブランデンブルク地方の公文書館も設置されていた。シュパンダウ通りは旧市街内部を南北に貫通する通りで、19世紀中頃までは上層市民の住宅が並ぶ通りとして知られ、その後戦災にあうまでは賑やかな商業地区だったが現在では跡形もない。

 アレクサンダー広場一帯の1960年頃の写真では平坦にならされた地面の上に何棟かの集合住宅が寂しく建っていて、統一後数年間のポツダム広場周辺に似た雰囲気を漂わせている。同じように空襲の被害を受けた東京は戦争前、昭和15年(1940年)の人口が668万人(東京市)、戦後の昭和35年(1960年、23区)には831万人と大幅に増加しているのに対してベルリンは同じ昭和15年の人口は434万人、1960年には東西ベルリン合わせて325万人と回復すらしていない。さらにアレクサンダー広場を中心とするミッテ区では50%以上の建物が敗戦時、全壊または復旧不能な状態となっていた。復興に際して東ドイツ政府は都市機能の社会的・空間的な分割を原則のひとつとして掲げ、旧市街の古い住宅群は「歴史的な欠陥」とみなされることになった。特にベルリン東部を中心として人口が大きく減少したためにアレクサンダー広場付近の住宅建築は復興する必要もなく、きれいに撤去されてしまったのだった。(東ベルリンの復興事業についての詳細は第9回で扱う)

 市庁舎前の、都市計画上は広場ではない広場のベンチに座る。正面に市庁舎、左にテレビ塔、右手に公園がある。駅からシュプレーまでの距離は約600m、広場の幅は約300mで、最近は観光客が増えたとはいえ広さをもてあましているように見える。大学への授業料導入に反対して何度か学生のデモが行われたが、広場が広すぎるせいか今ひとつ盛り上がらない。

 夏にテレビ塔の周辺の広大な空間を歩いていると砂漠を歩いているような気がする。おそらく、この地区の都市計画を行った60年代には、ベルリンの夏がこれほど暑くなるとは予想されていなかっただろう。もともと住宅が建っていた場所なので街路樹が植えてあるとはいえそれほど大きな樹木ではなく、コンクリートの照り返しが強い。アレクサンダー広場駅のSバーンの高架がカール・リープクネヒト通りと交差する辺りの建物に気温の表示がある。一度このあたりを歩いているときにアスファルトが溶けているので何度あるのかと見てみると41度ということがあった。日照時間が短いせいか、ドイツ人は太陽が出るとわざわざ直射日光を浴びに行ったりするし、西日が射すような部屋はむしろ好まれる傾向にあるが、この数年の暑さを思うと、集光器のように建っているアレクサンダー広場周辺の高層住宅の中は大変だろうなと思ってしまう。クーラーでもあれば別だが、ドイツでは住宅用のクーラーというのはほとんどない。ただ、暑くなったといっても、緯度が高くて夏が短いので少々我慢すれば良いだけのことだ。今のところ最近の温暖化でクーラーが一斉に取り付けられたという話はないようだ。

 テレビ塔はベルリン環状線(SBahn-Ring)の内側からならばほぼどこからでも見える。社会主義建設のシンボルとして、ベルリンのどこからでも見えるように作られたという。東ベルリンの古い町の景観を都心の方向に向かって撮影しようとすると、この塔が必ず背景に入ってしまう。逆に、ベルリン市の構造を上から観察しようと思ったらこんなに良い場所はない。高さ200m強の展望デッキから下を見ると、都心から郊外に向かって放射状に伸びている道路、古い住宅地域の何重にも連続する中庭と街区の構造、屈曲した古い道路と、幅広で一直線に伸びる戦後の道路などがはっきりと見える。市の中心部からそれほど遠くないテンペルホーフ空港に離着陸する飛行機は備付の望遠鏡で見るとちょっと怖いくらい近くを飛んでいる。世界時計もそうだが、このテレビ塔も近くで観察すると特に基底部が宇宙ロケットのソユーズに良く似ている(ような気がする)。社会主義時代の建設や工業デザインにはなにか統一した基準でもあったのだろうか。このレトロな近未来デザインは少し気になるがそれについてはいずれ触れることにする。

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左:テレビ塔:1964年、当時の東ドイツ国家評議会議長ヴァルター・ウルブリヒトの決定により、社会主義の発展を示すモニュメントとして作られ、1969年完成、10月3日に営業開始した。偶然のことだが10月3日は後にドイツ統一記念日になった。高さ368.03m、展望カフェの高さ207m。
右:「赤い市庁舎」と呼ばれるベルリン市庁舎。建物の右がシュパンダウ通り、左がユダヤ人通り。
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 ベルリン市庁舎は1861年から69年にかけての建設で花崗岩、砂岩とレンガの組み合わせで作られている。壁面にはベルリンの歴史上の出来事がレリーフになって埋め込まれている。この市庁舎の建設にあたっては国際コンペが実施され、いくつかの受賞作品のなかからヘルマン・フリードリヒ・ヴェーゼマン(Hermann FriedrichWaesemann)の案によるものが実際に建設された。数回にわたる改修工事が行われてきたとはいえ、明治維新直後に立てられた建築ということを考えるとずいぶん立派な建物に見える。新たな時代にもこの建物を利用していくために、ベルリン州政府は民間資本の導入によるエネルギー消費削減を実施している。これはエネルギー消費を減少させるため、ベルリン市内の公共建築を16のプールにまとめ、それぞれにエネルギー削減目標を設定し、民間投資で改修工事を実施、光熱費の節約分から投資家に配当を行うというシステムだ。償却期間は10年から15年程度。最初のプロジェクトは1996年に開始され、苦しい市財政の負担軽減に貢献している。

 現市庁舎の建物は99mに88mという大きなものだが、この場所には14世紀から市庁舎が建っていたが、火災で三度焼失、現在のものはこの場所に庁舎ができてから5代目になる。1867年に描かれた絵を見ると、先代の市庁舎(1716年完成)は一部が3階建てになった、壁面にも特別な装飾すらない建物がシュパンダウ通りと国王通りの角、現在の約4分の1の敷地に立っている。二つの通りの交差点にあたる部分には教会を思わせる塔があり、市内でも最も通行の多い通りに張り出していたためベルリンの訪問記などでは邪魔者扱いされている。現在の庁舎にいたるまでの一連の建築は規模や様式上の違いはあるが、基本的には一階に裁判所(Gerichtslaube)、二階に市参事会(Ratsversammlung)の集会所が設けられ、都市の独立を象徴していた。1270年頃に建設された最古の市庁舎の建築はレストランの一部としてニコライ地区に再建されている。
 
 庁舎の前の通りは市庁舎通り(Rathausstraße)というが、1951年までは国王通り(Königsstraße)といい、アレクサンダー広場から市役所の前を抜けて、ホーエンツォーレルン家の宮殿に続く、ベルリン旧市街の東西軸だった。

<街路の舗装と汚物の処理>

 中世ヨーロッパの町の汚さは広く知られているが、これが現在にみられるような舗装道路に変化したのはいつだろうか。そう思ってベルリン市内を描いた古い絵を見て見ると、マリア教会前の新市場を描いたものでは、既に1660年に加工した石による舗装(Kopfsteinpfalaster)が行われている。これ以前のベルリン市内を描いたものを見たことがないのでそれ以前の街路がどのようなものであったのかは文書に頼るしかないが、1660年以前のベルリンの街路はそれ以降とはまったく違う様子だったらしいことが記録からわかる。

 マーティン・ツァイラーという人物が1652年に書いた、「ブランデンブルク選帝侯領の地誌」という本によればこの頃のベルリンは、家の前にベンチが置かれ、街路は幅広く、清潔であるという。家の前にベンチが置かれているというのは旧東独の田舎では今でも多く見られる風景で、ツァイラーはこれがベルリンやシュパンダウの独特の風景だとして取り上げている。しかし、ツァイラー氏が例として挙げているのは修道院の付近の通りだけでどうやらこれは真実を伝えていないようだ。1660年に公布された「井戸・街路規則」(Brunnen- undGassenordnung)を読んで見ると、ベルリンの印象はがらりと変わる。

 まず、規則の第一条では、この規則が公布されてから6週間以内に、市内に家を所有するすべての者が家の前を道の中央の排水溝まで舗装することを義務付けている。しかし、個人が石を集めようとしたところで日本のように河原に石が堆積しているわけではないからベルリン市街地を急に舗装しろといわれても無理だと思うのだが。これを読んだ市民は困窮していたこともあるし困ったことだろう。

 第二条では、ごみや糞尿の始末をさせることを市民に義務付けている。いわく:「ごみを家の前に掃きだす場合には、つまりを防ぐため、排水溝のそばに押しやらぬようにせよ。家が狭いといって糞尿やごみを路上に捨てる場合には街路管理人に直ちに知らせて持ち去らせ、それらが路上に一晩以上放置されないようにしなくてはならない。またそれらを家の前で発見した場合には4日以内に掃除させること。罰金は2ターラー、半分は市役所に、半分は貧民に与えられる。」最後の項目は少し余計かもしれない。貧民が誰かの家の前で用を足すことを促しはしないか心配だ。町にとって大事な仕事をしている道路管理人だが、ベルリン人は当時も口が悪かったらしく、街路管理人の悪口を言わないようにというお触れも数回出ている。廃棄物の処理は有料だが、選帝侯の居城と市庁舎前に捨てられたごみは無料で回収されることになっていた。今日の感覚では両者とも一番きれいにしておくべき場所のような気がするのだが、おそらく市場以外の公共の広場というものがこれ以外になかったのだろう。

 第六条にはなんと豚小屋が登場する。「豚小屋その他、悪臭の原因となるものは公共の街路から撤去すること。」続けて、この条文には街路上に勝手に建物を建ててはならないことや、排水溝を越えるための飛び石を置いている者が多くいるが、排水の妨げにならぬようにせよといったことが書かれている。この当時、ベルリンのほとんどの家の前にはひとつどころか何棟かの豚小屋があったという。

 街路上で豚を飼っているというのはたしかにひどいことのように思われるが、この当時のベルリンや周辺の地域の経済状況を考えると十分に同情の余地はある。1652年というのは、30年間にわたって続いた戦争が終わって数年しか経たず、ベルリンの人口も1618年の12000人がわずか6000人程度にまで落ち込み、周辺地域では人口が3分の1にまで減少していた。すべての商業活動は停止し、加えて農作物の不作、家畜の大量死、洪水さらに貨幣の価値が低下するという不幸がベルリン市を襲っていた。戦争があまりにも長く続いたせいで、職業を身に着けず、兵隊として略奪することしか知らない者も数多くいた。浪人、領地が焦土と化した農場主、放浪民などが集団で村を襲っていたし、彼らはベルリンのような都市にも現われて最初は物乞いを、しまいには強盗に変身するという有様だった。1657年には選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが、ベルリン市民に、銃の操作を練習し、市の防衛義務を果たすよう布告を行う。
 
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左:団地の前に置かれたベンチ。暖かい日には老人が出てきて日向ぼっこをしている。(ブランデンブルク州リュッベン)
右:近世初期の町並み。中世の町並みもこれに近いものと思われる。(ベルリン市シュパンダウ旧市街)
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 さて、実施されることになっていた舗装工事だが、市民のほうはあまりまじめに取らなかったらしい。それともそんな余裕がなかったのか。20年近く経過した1679年になっても舗装が進展せず、選帝侯は厳しい罰則を設けて対処することを市民に布告している。このときの文書では、市民も特権階級の者も前回の通達をまじめに守っていないから路上が汚物まみれになっている、空気も汚染され、伝染病の原因にもなっているとしている。このときは前回とは違って「これは慈悲深く、まじめな命令であり、これに従わない者は処刑する」としている。1660年の規則では違反した場合には罰金と見せしめのために殴打されると定められていたので選帝侯の立腹のほどがわかる。

 にもかかわらず、18世紀の終わりに旅行者が書いた手紙を見ると、ベルリンの通りは相変わらず汚いと記録されている。「雨が降ると、ここが都市なのか村なのかわからないほどだ。歩いているといつ飛び出した石に激突したり穴に落ちたりするかわからない。道が広いので家々に取り付けられた街灯の明かりも充分ではないので寄る道を歩くには舗装の隅々まで知っていなくてはならない。道路と家(の敷地)を分ける溝はあるところには板で蓋が、別のところでは開いたままになっている。」

 1785年に書かれたクニュッペルンの「ベルリンの特徴」という本を見ると舗装だけでなく汚物の問題も解決されていない。「ここには汚物の堆積、汚水が腐って発酵した水溜りがあり、毒虫が発生するような通りがある。王宮に面した場所ですら人間や動物の排泄物があり、通りがかりのものにさえ耐え難い悪臭を発している。他の都市では街路は毎週掃除されているし、家主は家の前を掃除しなければ罰せられる。しかし、この町では街路の清掃は四半期に一度しか行われない。大きな通りや広場に山をなす汚物の堆積は借家人が自ら進んで手押し車でこの汚物を捨てに行くまで放置される。(中略)数日雨が続くと通れない場所も多いし、良い長靴が必需品である。」

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左:自然石の舗装(Feldsteinpflaster)。中世から近世にかけてはほとんどの場所がこのような舗装だった。現在でも田舎の教会の周辺で見かけられる。
右:「頭石」舗装。石の大きさがそろえられ、形も整っている。ニコライ教会脇にて
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 この町の当時の上下水道はどうなっていたのだろうか。まず、上水のほうだが、ベルリンは地下水が豊富なので問題はない(道を流れる汚水が混入しなければの話だが)。市内には合計で835軒の住宅があり(ただし200軒は空き家)、家の裏庭には井戸が掘られていた。井戸は合計で379あったということだ。1660年の布告ではこの井戸の見回りを行い、清掃を行う者として市参事会が2名の「井戸管理人」(Brunnenherren)を任命すると定めている。下水は街路規則に出てきた道路中央部の溝がこれにあたる。糞尿以外の家庭排水の処理も中世からまったく変化せず、各家屋の裏庭に掘られた穴にしみこませる方法が主に利用されている。この穴には生ごみも一緒に捨てられるので穴がいっぱいになってくると手押し車に載せて川に捨てに行く。糞便に関しては、路上に放置されていたものを持ち去るように定められたのは大きな進歩だが、捨てる場所はやはりシュプレー川だった。この仕事は公職で、女性がその任にあたった。女性に提供されたベルリン最初の公職のひとつである。シュプレー川へのごみ・糞尿の投棄は約半世紀後の1704年に禁止されるまで続けられたが、実際にシュプレーの流れを見るとこの川はほとんど流れていないのでずいぶん汚かったに違いない。

 結局、町をきれいにしましょうというのは、いくら国王が命令したところで、市民がそのような汚れに耐えられないと思うような生活水準に達するまでは無理だった。今、旅行や出張でベルリンにくる人たちは、ベルリンはパリやロンドンに比べると清潔ですねえ、と感心するがベルリンが清潔な町になったのは下水道ができた19世紀後半のことだった。これについては後で取り上げることにする。【2004年6月2日】【佐藤】

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フリーランスのリサーチャー、翻訳者、通訳者
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